『舞台裏のささやき』



 人にはそれぞれ、自分がぴったり収まる場所がある。どこかで聞いたその文句。この頃になって、八郎は良く思い出すのである。
 この仕事に就いたばかりの頃は、それはそれはいつも萎縮していた。失敗を怖れ ていたわけではない。後ろめたいことを隠していたわけではない。ただ、いつか放り出されてしまうのではないかと心配していた。
 八郎は大きい。身の丈が六尺近く(約一八〇センチ)もある。顔の造作も厳つく、粗っぽい印象がある。しかし、良く見ればわかるが、目は穏やかでむしろ気弱げだ。まるで戦場帰りのお地蔵さん。とは今をときめく名優の感想。彼女はその繊細な指で八郎の胸板(頬には届かないのだ)を撫でて言ったものだった。
 そうなのだ。実際、話してみればわかるが八郎はとても気が小さい。なまりの抜けきらない声で、大きな背中を丸めて、一生懸命"ていねい"に話そうとするのである。自分のなりを良く心得ているから。怖れられることのない様に、嫌われることのない様に、忌まれることのない様に。
 そんな八郎が劇場のもぎりをはじめてはや一年が経とうとしている。劇場前の電信柱に張られた荷運び夫の求人広告を眺めていたところ、「それよりも良い仕事があるぞ」と支配人に誘われたのである。その時の彼は泥酔しており、八郎を連れ込んだもののこれといって何をさせるか考えていなかった。しかしそこは酔った勢い、もののはずみ、舞台・客席の掃除を命じ自分はさっさと眠ってしまった。

 さて、驚いたのは何も知らされていない劇団員である。早朝練習に来てみれば客席には埃どころか塵ひとつなく、舞台は磨き上げられ隅のほうでは見知らぬ大男が何かを磨いている。劇団員が恐る恐る近づいてみれば、それはスポットライトなのであった。とはいえ不安が消えたわけではない。状況から考えて劇場を見違えさせたのはこの大男に他ならないのであるが、スポットライトといえば仮にも精密かつ高価な機材である。──壊されやしないか?
 しかし彼らは二度驚くことになった。八郎の手つきはどこまでも丁寧で繊細なものであったからだ。かくして磨き上げられたスポットライトは、工場出荷時に立ち返ったような輝きに満ちていた。
「おぉ」
 と周囲から感嘆の声が漏れたほどで、その声に作業に没頭していた八郎の方が吃驚仰天してしまった。繰り返すが八郎は気が小さい。いつの間にやら集まっていた劇団員たちに囲まれていたらそうなる。その上この劇団は総じて若い連中ばかりだったので、好奇心に火がつくと収まりがつかない。あっという間に八郎は質問攻めにあい縮こまってしまった。
「おいこら、そんなんじゃ答えられるもんも答えられんだろうが」
 そこへ一喝。声を辿ってみれば座長が腕組みをして立っていた。出身は横浜だが「あんたほんとは隅田川沿いの生まれだろう」と常々疑われている姉御である。彼女はぐるりと団員を睥睨し、八郎に軽く手を振ってわびた。
「うちの連中が迷惑かけたね」
 柔和に顔をほころばせて安心させるように言う。それを見た八郎がやっと警戒を解 いて首を振る。笑みを返す。
「うん」
 そうしてたっぷりふた呼吸分ほど間を置いてからこう聞いた。
「で、お前さん誰よ?」
 それからがちょっと大変だった。八郎はつたないながらも、田舎から出てきて仕事を探していること、泊まるあてもないこと、劇場の前で求人広告を眺めていたら支配人に声をかけられたことを話した。おおかたの劇団員はそれで納得したが、座長はすぐさま支配人に確認をとった。
 ところが痛い頭を押さえつつおきてきた支配人氏。案の定というかなんというか、そんな話は憶えていないので雇う話はなかったことにしたいと言う。たちまち劇団員から批難が飛ぶ。そんないい加減な話があるか。彼が夜なべでやった仕事はどうなる。あんたには人情というものがないのか。批難囂々(ひなんごうごう)とはまさにこのこと。
「ああ、もう、うるさい! だまれっ」
 瞬時に場は静まり返る。支配人より効果ある一声はもちろんというか座長のもの。
「確かに。どこの馬の骨ともわからん輩を雇えんというのは道理だ。あたしもわかる」
 ぶー、とシュプレヒコールがあがりかけるのを、
「しかし!」
 だんっ、と足を打ち付け黙らせ、彼女は八郎を背に支配人へ向き直る。
「たとえ酔っ払いの口約束でも仮にも責任のある人間の発言ならば、当然最後まで責任を持つべきでありましょう。──それに、ここまで出来るンなら、じゅうぶん雇うに値すると思いますがね」
 言い切った。別に理屈を並べたわけでもなく、くどくどと論を説いたわけでもない。端的にあっさりと道理を述べただけのことだ。しかし、こうもあっさりと言い切られてしまうと、言い切られた方は覆すのが難しい。なんといってもこれは、身から出た錆なのだから。
「むむむ」
 支配人氏。うなるもののこれは仕方がない。劇場の掃除その他用務係として八郎を雇うことにしたのである。

◇ ◆ ◇


 このような経緯なのだから八郎は一生懸命働いた。呼ばれればすぐ飛んでいったし、不平や不満は一つも上げず、便所掃除から汚物処理まで全部やった。
 本人は追い出されるのが恐くて必死だったのだが、その働きぶりはあちこちで認められるところとなり、八郎は劇場のあらゆる雑務をこなすようになっていった。そうして、もぎり役をやらせることにまでなったわけだ。
 巨体は観客に威圧感を与えまいか、という不安はあったが風呂に入って新しい作務衣にはっぴを着させて、頭に手ぬぐいを乗せてみればあら不思議。意外にも愛嬌をかもしだし、たちまち劇場の名物なってしまったのだ。もともと物腰はおだやかだから相手が構えなければ、八郎も構えることはない。
 いまや八郎はすっかり劇場の住人だった。もう追い出されやしまいかとびくびくすることはなくなったが、真面目で細やかな仕事ぶりは変わらなかった。八郎はこの劇場が大好きだったし、それに……。
「八郎さん、お疲れさま」
 開演時間となってもぎり仕事を終えた彼を、売店の売り子をしている娘がねぎらった。顔を合わすことが多いせいか、いちばん話すことの多い相手でもある。小柄な娘で八郎の胸にも届かない。美人ではないものの、愛嬌のある子ではあった。
 八郎は相変わらず気後れしながらも、二言三言しゃべり手ぬぐいで額の下を隠すようにしながら彼女と接した。彼の人見知りぐせを知っている彼女は決して急かさずゆっくりと話をした。八郎の気のせいだと思いこんでいたが、端から見れば彼と話す彼女の姿は楽しそうであった。

◇ ◆ ◇


 そんなある日のことである。勢力の大きい台風が、帝都を直撃するという報道が流れた。なるほど、そういうことなら今日の風の強さ雨の勢いも頷ける。劇場はしっかりした作りであったが、相手は大自然の猛威である。
 なにが起こるかわからない、ということで八郎は劇場に泊まり込む旨を支配人に申し出た。この頃になると支配人も八郎を信頼していたので、二つ返事で鍵を渡し「くれぐれも宜しく頼む」という言葉だけ残して家族の待つ家へ帰っていった。
 日が暮れてから、風雨は勢いを増した。ごうごうと鳴り響く風は建物を震わせ、降り止むことのない雨はしきりに窓をたたいた。事前の策として全ての窓を板で塞いでおいたので、それが飛ばされない限りはガラスが割れることはないだろう。高所にすえられたスポットライトやエントランスホールのシャンデリアは念のためはずしておいた。
 ……玄関も閉ざしたほうがいいかな?
 そう思い、工具を片手にエントランスホールまで来たときである。こんな天気だとい うに劇場の大扉をたたく音がする。
 コンコンコン、コンコンコン。
 普通ならば空耳か、風に飛ばされた何かがぶつかる音と考えるところだろう。しかし。
 コンコンコン、コンコンコン。
 どうにも切羽詰った様子だ。不安を感じつつも八郎は施錠を解く。すると勢いよく扉は開き、外からずぶ濡れの何かが投げ込まれてきた。あわててそれを受け止める と八郎は扉を閉める。いまのはあぶない風向きだった。元通り施錠し、それを抱え込んだまま自らが重石になるように扉を背にした。
「は、はちろうさあん」
 それが口を利いた。その姿かたちをあたらめて、八郎はとても驚いた。雨水なのか涙なのかわからないもので顔をぐしゃぐしゃにした顔が自分を見上げていたのだ。売店の売り子の娘だった。
 驚いたまま八郎は手を離すが彼女の方がしがみついて離れない。作務衣の生地をぎゅっと握り締めて、ほとんど泣き声と変わらない言葉でさっき体感してきたばかりの恐怖を語った。八郎でさえよろめくほどの風雨だ。彼女は良く飛ばされなかったと思う。まともに事情を聞けたのは濡れた服を替えさせて、休憩室で白湯を渡してからのことだった。

 台風の季節ということはすなわち彼岸である。支配人氏はあれで敬虔な仏教徒なので従業員には彼岸休みを与える。台風とはいえ八郎が残っていることは異例なのだ。
 彼女も実家に帰るはずだったのだが天候の影響で東海道本線が遅れに遅れ、切符が取れなかったという。仕方なく下宿に戻ろうとしたのだがこの風雨である。風に巻かれ雨に祟られ、どうにかこうにか辿りついたのが劇場だったというわけだ。寄席に持っていけば笑いを取れそうな話だが、彼女の足で無事にここまで辿りつけたのは僥倖と言えよう。
 すっかり落ち着きを取り戻した彼女は「誰もいないかったらどうしようかと思った。八郎さんがいてよかった」と心底安心した顔で言った。ごとごとごとと窓が揺れた。他に着る物がなかったので、彼女は衣裳部屋から持ち出した女学生の衣装を着ていた。そうすると普段より年相応という感じがする。八郎は終始聞き役だったが、彼女は楽しそうであった。
 そんな時、狙い済ましたように灯りが落ちた。どこかの線が切れたのかもしれない。あるいは電信柱そのものが倒れたのかもしれない。憶測は尽きないが、予想していたことなので八郎はあわてず用意しておいたランプを灯した。
 一息ついて余裕ができたのだろうか。それとも安心できるなにかがあったからか、彼女も落ち着いて騒がなかった。それどころか、見回りをしてくるという八郎について来たがったくらいだ。それは、一人になることへの不安からでなく、子どもっぽい好奇心からのものであることは明らかだった。
 外はすでに夜である。灯りの落ちた場内は暗く、西欧の宮廷を模した廊下はくす んだ闇がたちこめていた。激しい風雨は止む気配はなく、気の弱いものなら物の怪のうなり声と思い違いしそうな音を立てている。
 八郎はわずかに身震いをした。自然の音なので怖いことはないが不安はある。天変地異というものは畏れるものであって、怖れるものではない。歩きながら彼女はどうなのだろう、と八郎は思った。
 なんのかんの言ってもやはり怖いのか八郎の袖をしっかり握って隣を歩いている。しかし時折響く轟音に悲鳴を上げることなどはなく、寄り添うほかは足取りもしっかりしており余計な手間を増やすことはなかった。ただ八郎が困ったのは、密着しているた布地越しに触れる柔らかい感触にどぎまぎしてしまうことだった。
 劇場はおおむね異状無かった。八郎が手を尽くしておいた事前策が功を奏したのであろう。観客席はさすがに概観するしかなかったが、心配していた雨漏り等は無いようだった。
 あとは舞台だけということで、壇上に上がったときである。彼女が短く声を上げ八郎の腕を引っ張った。はじめは何のことかわからず構えたが、急かされるままに隅まで行くと、そこには真っ白い子猫が丸まっていたのである。
 閉じるところは完璧に閉じたと自負している八郎は戸惑っていたが、彼女は弱っている子猫を抱き上げると「お前、どこから来たの?」と優しく背中をなでた。
 その瞬間だった。
 耳を聾する轟音と共にこの世の終わりかと思えるような激震が劇場を揺さぶった。八郎はとっさに女学生姿の娘を抱きすくめ、彼女は子猫を抱きすくめた。木材や石膏といった劇場を構成する物質がばらばらと降り注ぐ。八郎は古の大鬼が山から出てきて、劇場の屋根を踏み抜いたのではないかととっさに思う。腕の中で娘が悲鳴をあげ小さな身体は恐怖にわななく。もはや伝わってくる鼓動だけが信じられる全てで、それさえ守れば自分も助かると決めつけた。そうでもしないと……。
 そうでもしないと、恐怖のあまり心臓がとまってしまいそうだったから。
 震動が収まるまでどれほどの時間を要しただろうか。舞台には風の音と雨の気配、緊張の余燼だけが漂っていた。
「八郎さん」
 首の下から届いた声で八郎は我に返った。腕どころかほぼ全身が触れ合っているが、どぎまぎするものの不思議と緊張はしない。言葉を交わし相手の無事を確認すると身体の力が一気に抜けた。
 とはいえ安心はできない。なんといってもあの轟音と震動である。一体どんなことになっているやら、と恐る恐る振り向いた八郎はあまりの惨状に硬直し、彼の肩越しに覗きこんでいた彼女は言葉を失った。
 ある意味で八郎の想像は的中していた。劇場の屋根を貫通し舞台中央に突き刺さった鉄製の看板には、『坤軸の大鬼』という映画のタイトルが記されていたのだから。
「八郎さん……」
 呆然とした体のまま、彼女が口を開いた。視線を手の中の子猫と看板の間を行きつ戻りつしていた。
「この子、命の恩人ですね」
 いくらか言葉は足りないが、彼女が言わんとしていることは八郎にもわかった。白猫はなにもわかっていないらしく、彼女の腕の中で「にあ」と鳴いた。

◇ ◆ ◇


 ──人にはそれぞれ、自分がぴったり収まる場所がある。

 嵐の翌日、劇場に上がってきた誰もがたまげた。理由は二つ。一つは舞台に突き立った巨大な看板で、もう一つはその傍らで肩を寄せ合って眠っている二人の姿だった。
 おそらく応急修理をするのに大変だったのだろう。木ぎれや厚布、工具の類がその周囲に散乱している。人手がいない中、なんとか雨の浸食を防ごうと奮闘した痕跡は生々しく現われていた。それは良い。それはわかる。
 わからないのは、どうして劇場付用務員と売店の売り子が一緒なのかということだった。ぐるぐる首を傾げる支配人の足下を白い子猫がちゅろちょろしていた。
 心配して出てきた座長は眠たげにぼーっとしていたが、やおら口の端をつり上げ支配人氏に告げた。
「じゃ、ともかく、この子等休ませて上げましょうや」
 ひょいと片手で子猫を捕まえる。
「あんたは、お風呂」
 ちいさな白ははてなと首を傾げる。多くの飼い猫が地獄めぐりと揶揄する風呂なるものを、生まれて間もないこの子は知らない。
 舞台と屋根の修理には結局、突貫工事で三週間ほど掛かった。

 後日談となるが白猫はしばらく劇場で世話することになった。座長の「こんなんで放り出したら野垂れ死ぬ。そりゃちょっと寝覚めが悪いダロ?」という一言と、とある二人の口添えがあったからである。劇場で働く人間たちの暇の間を行きつ戻りつしているうちに子猫はすっかり住み着いてしまった。上演中の舞台を横断して団員達に急なアドリブを強いたりもすれば、チケットをちぎる八郎の頭の上にいたりもする。中でも傑作だったのは、支配人の留守中その椅子で昼寝していたことだろうか。
 ともかく、ここを完全に自分の居場所に定めたらしく、むしろ当然という顔で居座っている。人にはそれぞれ、自分にぴったり収まる場所があるという文句はあるが、それは猫にも言えるのだろうか。
 頭の上にいる白いのを指差し八郎がそんなことを話すと、今日も売店にいるあの子はくすくすと笑う。
 この二人のその後はどうなのかというと、それは後日談の後日談。

《了》





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