『 Return To My Earth 』



 異常が発生したのは、人類標準時の2時23分だった。
 おおとりと名づけられた宇宙機の生まれ故郷では、この時間帯を「草木も眠る丑三つ時」と言う。
 文字どおり、人や動物どころか草や木も眠るような時間、という意味なのだが、幽霊やもものけが出る時間、という意味も含まれている。もっともそれは、この言葉が生まれた頃に半信半疑で言われていたことなのだけど。
 おおとりに関わる人々にとっては、そういうものの仕業と思いたくなるような事態だった。
 まず、一般に大気圏突入という言葉で知られている行為を、より正確に説明するとこうなる。
 宇宙空間もしくは、大気の極めて薄い人工衛星が飛行する高度から、地球へ降下することを再突入という。実際、再突入と一口に言っても色々あるのだが、この場合は地表へ帰還する場合の再突入のことだ。
 その時、おおとりは高度800キロメートルから減速し降下軌道に入り、地球へ帰還するための最終シークエンスに入ったところだった。この過程で高度は一気に200キロへ下り、落とした周回速度の代わりに上がった降下速度を抑えるための減速を行う直前。より正確には、減速を含めて降下軌道に入るところだった。
 もっと大雑把に言うならこうなる。
 その時、おおとりは大抵の人工衛星の軌道より少し高いところから、地上に降りるための作業を終え、ここから速度を落として地球への降下を始めようとしたところだった。
 あとは、飛行機が飛ぶくらいの高さへ──宇宙から空中へ──降り、無事に基地に着陸することである。
 宇宙機(人工衛星や宇宙ステーションなどの帰還用カプセルも含む)が地球へ帰還するには、こうした手順を踏まなければならない。
 もしも、この過程のどこかで間違いがあると、水を吸ったティッシュペーパーのように影響は広がり、最悪の場合は帰ってこられなくなる。原因は気象条件、機械の故障、操作する人間のミス……などと、フタを開けてみれば交通事故とさして変わりはない。
 つまり、それが人が作った物で、人の手(たとえコンピュータによる完全自動操作でも)が関わる物なら、宇宙開発でも違いはないということである。
 しかし、大抵の人間は特別視してしまう。
 月と地球の往来が問題なく行えるようになっても、宇宙というスケールの大きさに圧倒されるのかもしれない。おおとりの置かれた現状も、もとを辿ればここに起因すると言えなくもなかった。
 おおとりは、宇宙と地上を行き来する有人軌道往還機として設計されたが、現在は無人で運用されていた。なぜ有人機が無人なのかといえば、人間を乗せての初運用に強い「待った」が掛かったからだ。
 有人往還機計画が実行されていれば、かつてのスペースシャトルを凌駕するシステムの礎となったかもしれないのに。そうした背景事情がなければ、この事態から脱することができていたかもしれないのに。
 すべては、かもしれないに過ぎなかった。

 そして──

 軌道往還機おおとりは、高度を失い、速度を増していた。
 高さに関係なく空を飛ぶあらゆるものに、この意味は共通する。
 落ちている、ということだった。
 このままのコースで落下すれば、待っているのは空中分解だ。燃え尽きるという結末は、再突入による帰還を前提に設計されているおおとりの構造、そのサイズから可能性は薄かった。
 おおとりは、最新型の調査/実験用の宇宙機であるため、もしこれが失敗すれば今後この国での宇宙開発に、大きな陰を落とすことになりかねない。
 しかし、絶望的な状況から脱するために、手を下せる人間は誰もいないのだった。


 地上の管制センターは、騒然となった。
 人類標準時をこちらの時計に合わせれば、11時23分となる。定位置に着いていたスタッフ達は、おおとりを帰還させるためにあらゆる手を尽くしていた。
 他国の宇宙開発機構にも協力を仰ぎ、異なる緯度、経度からの信号送信や位置把握。観測可能な人工衛星を用いての間接誘導。そして、最近になってようやく設立された国際宇宙開発機構へ、緊急事態をコールした。
 こうして外堀を固める一方で、スタッフはあらゆる状況を想定して、対処策を検討、可能なものは即座に実行していった。
 致命的だったのは、おおとりとの交信が完全に途絶していることだった。通信機器になんらかの問題が発生しているらしく、定時の自機位置送信さえもない。レーダーなどを用いて、間接的にどうにか機体の追跡をしている有り様だった。
 考えられる原因といえば、異常事態発生の寸前、おおとりのカメラが捉えたオーロラのような光だ。それから2分後に、交信途絶状態に陥っている。
 2分というと人間にとっては短く感じられるが、多くの人が思っているほど、120秒という時間は、決して短くない。
 時間の経過は不変だからだ。
 できれば、会いたくない相手を待つ時間は、異様に早く感じられるのに。
 どうしても、会いたい相手を待つ時間は、不思議と長く感じられるのに。
 この場合、2分もあれば、おおとりの自己診断機能はもとより、地上からもハード/ソフト両面をチェックするには十分だった。この時点で、どこにも故障も異常も確認されなかったからこそ、降下シークエンスに入ったのだ。
 タイムテーブルにしても、念を入れて数時間ほど遅らせている。
 理由は、おおとりのいる軌道上にあった。当初予定されていた時刻に、降下コースのど真ん中をスペース・デブリの乱流が奔っていたからだ。
 早い話が宇宙ゴミの嵐が来ていたので、その時間を避けたのである。
 放棄された人工衛星やそれらが衝突した際にできた破片、細かい塵や宇宙機から剥がれ落ちた塗料の欠片、こういうものをデブリと呼ぶ。
 もともとが地球の周りを回っているものなので、放っておけばそのまま回り続ける。この場合なら、高度600キロメートルの熱圏上層の地球低軌道なので、速度は秒速7.9キロメートルになる。
 秒速7.9キロメートルを時速に直すと、2万8440キロメートル、マッハ約23.2……。
 これほどの速度になると、消しゴムくらいの破片でも、激突すればただでは済まない。
 最後に受信した情報は、デブリの発見と緊急回避機動の警報だった。おおとりが降下軌道に入りかけたところで、姿勢制御を行ったことはその情報からも地上からの追跡からも確かだ。しかし、それ以上のことはわからず、それ以降のこともわからない。
 ふいに、管制室が静かになった。
 機械の動く音、コンピュータの冷却ファンの音くらいしかなくなる。人々は眼前の大型モニターに表示されたおおとりを示すポインターと、更新されたステータス・ボードを見つめたまま言葉を失っている。
 異常事態発生から7分。
 この7分間が地上では、最後のチャンスだったことを全員が知ったからだった。どうにか周回軌道を飛んでいたおおとりが、地球への降下を開始した。降下シークエンス実行途中だったため、まだ最終軌道修正が終わっていない。
 いや、降下というよりは、もはや自由落下に等しい。
 二つだけ人々を安堵させた事があった。
 落下コースはどの航空路とも交差せず、領空に入ることもない。落下予想地点は海上で、周囲250海里に地表が存在しない。おおとりの再突入失敗で二次災害が起きる可能性は、極めて少ないという事だった。
 でも、そんなことは気休めに過ぎない。
 誰もが思っていたのだ。
 無事に帰ってきて欲しい。無事に帰れるよう導きたい。
 もちろん、おおとりは無人機であるがゆえに、複数のバックアップが存在したが、それらが機能した形跡は確認されなかった。
 予定のコースから外れ、地上からの指示電波にも応じず、ただ落下し続けるだけの物体と化していた。
 少なくとも、地上からはそう判断せざる得なかった。


 管制室の推測は、的中していた。
 おおとりが降下シークエンスに入る直前、レーダーの死角から飛来したデブリが機体の間近で炸裂した。それ自体は大したことはなかったのだが、この炸裂というのがまず異常だった。本来なら、衝突寸前のニアミスで済んだコースだったこともあるが、もとが人工衛星であれなんであれ、デブリは自爆などしない……はずだった。
 おおとりの機首前方わずか13メートルで炸裂したデブリは、強烈な電磁パルスを放出した。この時、おおとりは地上管制と交信中であり、通信用アンテナはもとより機体各所に巡らされたフェイズド・アレイ・レーダー、機首に収められたパルスドップラー・レーダーは、この電磁衝撃を存分に吸収してしまった。
 人間で言うなら、視聴覚を始めとした感覚器官へ一度に滅茶苦茶な刺激を与えられたようなものだ。おおとりの場合なら、さらに磁気、振動波、放射線なども明瞭に感知する。人間の感覚より敏感な電子機器の解析機能へと、あらゆる刺激が一度に与えられたわけだ。
 地上との交信途絶までにタイムラグが生じたのは、電磁衝撃があまりに強烈だったため、内部に一度蓄積されたそれが暴力的なエネルギーに化けたからだった。
 メインコンピュータは、ダメージを受けたと判定した瞬間に機体コントロールを隔離、各回路を接続する光ファイバーの結節点を一時的に解除したが、それが限界だった。
 防御が間に合ったのは、文字どおり機械的な部分のみで、電子制御系はほぼ死んでいた。光ファイバーの高速性が、裏目に出てしまったのだった。
 電子回路の集積であるメインコンピュータ及び付随するサブコンピュータは、純粋な記憶装置であるバックアップ・メモリを残して全滅していた。
 生き残っているコンピュータは二つあったが、その二つではどうしようもなかった。
 もちろん、コンピュータは抗議などしないし、抵抗したりもしない。コンピュータは、そうした意思というものを持たない。
 しかし、意志という点からすれば、ある種の人間と相通ずるものがある。
 コンピュータは、諦めるということをしない。


 非常灯と各種航法指示器、耐熱キャノピーの向こうに見える地球の光。ほとんどが機能停止を示す赤い光で埋め尽くされた中、うっすらと緑色の光を放つ機器があった。
 おおとりに搭載されたコンピュータの生き残りは二つだけだったが、言い換えれば二つだけは生き残ったということでもある。
 一つは、メインコンピュータかそれに準ずる電子頭脳からの命令を実行する航行補助コンピュータ。もう一つは、実験的に積まれていた特に役割を割り振られていない補助コンピュータだった。
 コクピット内で唯一別の光を放っていたのは、CBM705という名の後者だった。
 CBM705は、推論式粘菌コンピュータである。
 粘菌コンピュータとは、粘菌が光や餌となるものに反応し、様々な形に変形する活動性質を利用したコンピュータのことを指す。餌と認識させるものを与えれば入力となり、餌までの最適距離に形を組み替える活動が出力となる。
 推論式というのは、目の前で発生している事態に対して推測を行い、最も可能性が高いものをはじき出す方式だ。別々に研究されていたものを掛け合わせて作られたのが、CBM705だった。
 見た目はコンピュータチップと変わらない素子の中身を顕微鏡で拡大投影すれば、菌類が絶えず活動しているのが見える。こいつらが「あーだこーだ」言って、推論を立てていると考えても基本的に問題はない。
 CBM705は、注目も称賛もされたが、現場ではみそかっすだった。
 宇宙では確実に動作するものが求められる。補助コンピュータという位置付けは、この新たな電子頭脳(菌糸頭脳か?)が極限環境下でどれだけの力を発揮できるかを量るためだった。
 役割は期待されていないにもかかわらず、成果は期待されている。
 なんとも矛盾した存在なのだった。
 そんなCBM705の役どころは、機器の全般監視である。このため、最初からメインコンピュータなどとは、結節点が遠くに置かれている。これによって、大電流の洗礼こそ受けたが電磁波の直撃は免れていた。
 だが、設計の想定を超える電力を注ぎ込まれたことで、素子の中の菌類が異常増殖を起こしていた。扱いはみそかっすでも、他と同じくCBM705にも非常手段として、外部のバックアップを自己判断で受けられるように設置されている。
 外部との結線である光ファイバーは、非常用のターミネーターを噛まされていたが、現在のおおとりにはCBM705以外に判断を行うものが存在しない。非常措置として再接続させ増殖した電荷を伴った菌糸類を外へ出すことは、つまり機体全体の電子機器へ流れ込むことは、ごく自然に行われた。
 なぜなら、流れ込む先の素子の過半は焼き切れており、軌道上での航行記録と観測記録を収めた記録装置くらいしかマトモに機能しているものはなかったからだ。この二つは最初から隔離されていたし、航行にはなんの役にも立たない。
 CBM705は、異常事態発生から289秒でおおとりと一体化した。
 行動を開始するには、258秒の時間が必要だった。同機が置かれた状況からすれば、ロスタイムと言える時間である。
 あらゆる状況想定の中に、CBM705が全体をコントールするという想定は入っておらず、全体を把握するまで素子に使用された粘菌が繁殖するという状況も想定外だった。当然、CBM705自体にとっても。
 この規模の菌糸ネットワークは、人間の脳に相当するほどになる。人間が物を考える際は、脳の神経網であるシナプスを形成するニューロンに電気信号が流れる。そして、おおとりに形成された菌糸ネットワークは、全体に広がった際に生き残っていたわずかなバックアップから電子情報を受け取っている。入力と出力が絶えず行われ、ネットワークはその度に最適の形に変異する。
 人間の脳が再現されているようなものだった。
 CBM705の行動が遅れたのは、人間にたとえるなら、戸惑っていた、からだった。実験室内でも自機がこれほどまで拡張されたことはない。それに、どの電子頭脳も機能停止している。地上からの指示もない。
 おおとりがごく一部を除いて、光ファイバーによる機体制御を行うフライバイ・ライトと呼ばれるシステムを導入していたことも、これに一役買っていた。
 フライバイ・ライト・システムは、もう一つの生き残りである航行補助コンピュータに接続されている。これは電子頭脳というより純然たる操作伝達機械に近く、自動航法装置とも切り離されている。代わりに、これを介してならば、電圧・油圧系統に至るまで操作も可能だった。早い話が手動操縦装置である。本来、おおとりは有人機なのだから。
 だが、操縦桿を握る手はない。
 結果として、全てCBM705が行わなければならなかった。
 そのため、CBM705は自機の暴走を抑制する信号を流した後、優先順位の確認という基本に立ち戻った。

  ◆行動優先順位
   1 乗員の保護(現在は無人のため省略)
   2 1を前提とした上での機体の保全
   3 上位のコンピュータの命令実行
   4 自己保全(3がない場合、自己判断)
   5 上位コンピュータの保護(破壊されているため不可能)

   ◆ミッション確認
   1 おおとりに搭載されたあらゆる電子機器の全般監視(完了)
   2 1と並行して上位コンピュータの支援(不可能)
   3 自機動作状況の確認(実行中)
   4 帰還(待機)

 CBM705を戸惑わせた原因は、四つ目のミッションだった。
 ここでの帰還とは、当然おおとりが再突入し着陸するということである。他のコンピュータは、航行制御や観測をつかさどっていたため、帰還について具体的な指示が与えられていたが、CBM705にはそれがない。
 結果、帰還する方法を単体で考えなければならないのだった。
 おおとりには、自機の他に判断する物はもう存在しない。CBM705は128通りの可能性から最適解を選び出し、それまで待機状態にあった『帰還』ミッションを実行に移した。


 地上管制室。
 沈黙に包まれていた部屋にどよめきが広がった。
 降下角度、機体姿勢、速度を記すステータスが微動し始め、続いて絶え間なく動きはじめたのだ。専門的な知識を持つ者なら、それらが意味することがすぐにわかる。
 無人で音信不通の軌道往還機が再突入軌道に入ろうとしていた。

 ──おおとりが動いている。

 誰かが言った。
 応じる声はない。それほど管制室の驚きは大きかった。
 なぜなら、交信回復は絶望的であるとして、最終手段が実行される矢先のことだったからだ。
 最終手段。それは、どの様な状態でも受信可能ならば、受け付ける機能停止信号を発信するというものである。宇宙機にとって「余計なあがきはやめて諦めろ」という死の宣告に等しい。
 すぐさま停止コマンドの送信が中止され、追跡と予想される帰還コースが割り出される。該当した長大な滑走路を持つ宇宙基地へ、緊急着陸準備の連絡が送られた。
 人間にできることは、それですべてだった。
 そして、誰もがモニターを見たまま再び沈黙する。


 CBM705は、まず自機の状態確認から始めた。
 いびつな二等辺三角形のシルエットを持つ機体は、炭素繊維と耐熱セラミックの複合体で、その部品の多くがほぼ一体成形で作られていた。
 機体外装の損傷は、機首にわずかなダメージが認められたものの、現状では無視できる。それより内部に収めれたパルス・ドップラー・レーダーが、乱反射するエコーを拾う程度にしか作動しないことがダメージとしては大きい。さらに、機体各所に張り巡らされたフェイズド・アレイ・レーダー素子、長距離通信用アンテナ類も大半が機能していない。
 電子的な探知や送受信するための機器は、軒並み何らかの被害を受けていた。外部から情報を得ることもできなければ、外部に情報を送ることもできない。
 センサー群は、オールロスと判定するしかなかった。
 これとは対照的に、機体本体の損傷は極めて軽微だった。主翼及び各動翼は、予備の油圧系統も無事で、推進器は予備を含めて正常に稼働している。結線していたフライバイ・ライト・システムを、増殖した菌糸類が修復していたこともある。
 CBM705は、各機器を客観的に監視するための自律制御モードを応用し、航行補助コンピュータとの新たなリンクを確立した。おおとりを完全に制御下に置き、人知れず秒読みを始める。

 3、2、1……実行《アクティベート》。

 メインノズル噴射2秒。イオンスラスター左下方4番出力60%、右上方1番出力35%で噴射。傾いていた機体を水平に戻し、下がりすぎていた機首を上げる。大気加速は既に始まっているため、動翼は固定したままX、Y、Z各リアクション・ホイールを同期させ姿勢制御を行う。
 おおとりは、地表を下に25度のやや浅い突入角度を取り、機体の安定を取り戻した。機外温度は降下とともに低下していくが、加速により機体表面温度は上昇している。
 これまで多くの降下体や落下物を焼き払ってきた熱の壁が発生しているのだ。
 航空機が音速を超え音の壁を突き破る際、機体自体もすさまじい振動にさらされる。このとき発生するのが衝撃波である。さらに加速すれば、突き破った圧縮された空気との間の温度が上昇していく。温度上昇は加速度に比例しやがては摂氏1000度を超え、ジュラルミンなどの金属を溶解させるほどの熱の壁となる。そして、それは宇宙空間から地球大気に突入する宇宙機は、1000度どころではない熱に曝される。
 この熱の壁を抜けるために、宇宙機は再突入時に減速を行うのである。
 熱圏から中間圏に入り、そこを抜ければ成層圏だ。しかし、最初の侵入角度が深すぎたため降下速度が速くなり、高度は一気に落ちていた。これは、機体の安定を取り戻すため、減速すべきところで加速してしまったことにある。この速度で熱圏を通過して機体が保ったのは幸運としか言えない。
 高度127キロメートル。
 熱圏との境界である中間圏界面に達するまで、あと30キロメートルあまり。このままでは熱の壁から抜けられない。CBM705は、おおとりの機体形状と自機は本来持っていない航空力学を他の記憶装置から引き出して計算する。推進器を使わずとも可能な飛行時間。着陸時に必要な推進剤の分量。それらの条件と気象条件を掛け合わせる。
 きわどい結果が出た。
 CBM705は、大気圏内の飛行は滑空を主として、着陸時に行う姿勢制御と減速用の推進剤を温存することにした。失速する危険はあるが、減速推進終了時の高度は十分にある。
 おおとりは滑走路を多少オーバーランしても着陸できるよう作られていたので、問題は基地まで辿り着けるかどうかにあった。失速しないとは断定できない。しかし、一度基地へ侵入するコースに入った場合、陸地に接近することになる。基地の近くならば、墜落しても被害は最小限に留められるが、それ以外の場所に墜落すればどうなるか。推測するまでもなかった。
 CBM705は決断した。
 下方の3、4、5番のイオンスラスターを全力噴射、同時に機体の姿勢を保つため、上方のスラスターも噴かす。さらに、異常増殖した自機の一部の粘菌を機体表面に放出し、イオンスラスターの排気熱に衝突させプラズマ流を発生させた。
 速度観測計であるピトー管が、正規速度まで減速したことを知らせた。センサーやレーダーが使えない状態では、このピトー管と有人飛行時の補助カメラによる機械の目が頼りだった。
 CBM705は、人間がマニュアル操縦するのに等しい状態で、おおとりをコントロールしていた。
 電離層E層を抜ける。
 おおとりはそのまま中間圏に突入、CBM705はおおとりの機首を上げ、迎え角を大きく取らせる。気流の渦を意図的に機体へ当て、空気抵抗を増加させさらに減速する。すさまじい振動にさらされたたが、おおとりは耐え切った。
 大気を切り裂く衝撃波とプラズマ光が長い尾を引く。
 空が割れる。
 青が広がる。
 成層圏に到達した。人工衛星が飛ぶような高さから、航空機が飛ぶ高度までの降下。再突入に成功したのである。
 イオンスラスターは限界を超え、姿勢制御は動翼でのみ行うしかない。推進剤は着陸時に必要な分量を差し引くと、余裕は全くなかった。
 CBM705は、メインノズルをわずかに噴かし、可変翼を広げコースを修正する。おおとりが着陸すべき滑走路へと機首を向けた。
 人間なら喝采を上げるところだが、CBM705は黙々と作業を続ける。
 規定高度への降下と突風などに対する動翼制御。着陸進入から着陸後の最終減速。エンジンカットまでのプログラムを組む。自機の性能をはるかに超えた作業だったが、CBM705はやってのけた。プログラムを航行補助コンピュータを受け渡す。
 そして、CBM705は最後の仕事にかかった。


 おおとりが無事帰ってきた。
 滑走路に降り立ったおおとりは、消防車に取り囲まれたが、放水や消化剤噴霧も必要はなかった。
 この事実だけでも人々を驚嘆させるのには十分だったが、それは序の口に過ぎなかった。
 機外から有線接続したところ、航行補助コンピュータと推論式粘菌コンピュータしか信号を返さなかったからである。本来、機体を制御するコンピュータ群は、一部の記録装置を残して全て損壊していたからだ。
 これらの損傷を受けたのは、異常が発生したその時である事もわかった。推論式粘菌コンピュータ、すなわちCBM705もいくらか影響を受けたようだったが、発進時とほぼ変わらぬ状態だった。
 異常の原因はデブリ同士が接触したものと判明した。コンピュータの破壊は、デブリの片方が他の衛星に体当たりして自爆する軍事衛星だったからだ。この衛星は、自爆の際に強力な電磁パルスを撒き散らすよう作られていることも、追跡調査で判明した。記録上は廃棄処分済みとなっていたため、想定状況になかったのである。
 しかし、そうした危機からおおとりがどうやって帰還の途につけたのか。
 それだけは誰にも解けない謎のままだった。
 ただ、このミッションを通じて、一つはっきりしたことがある。設計段階で有人機として作られた機体は、有人で運用すべきということだ。
 人間の手が関わるものには、人間の責任も関わる。だから、それが行えないような状態にしてはいけない。
 以上が、おおとりの管制室から発表された内容の要点である。


 CBM705は、全てのミッションを完了した。
 粘菌コンピュータの持つ特性である増殖は、他のコンピュータと接続すると危険を伴う可能性があった。それは、増殖した際に侵食してしまうというものだった。
 このため、CBM705には、自機が増えすぎたときのため定量まで数を減らすための自殺プログラムが組み込まれていた。生物学で言うアポトーシスを限定的に行うのである。
 最後にプログラムを組んだ際、CBM705は粘菌コンピュータの原則に従って、自機の減数を行ったのである。
 この事実を知ることは、地上の人間には不可能だった。
 もしも、有人機であるおおとりに人が乗っていたなら、別だろうけども。


《了》




あとがき
 以前、某所で使った作品を加筆修正したものです。
 公開する気はなかったのですが、サイトにある小説がどれもこれも旧いため、新陳代謝に使うことにしました。
 執筆段階での構成要素は、理系的発想、ショートショート風、ナンセンス。
 意図して変えていた文体を本来のかたちに戻したので、印象は多少変わりましたが、根本的な部分は変わっていません。
 あと、科学的な考証については、あえて手を入れずそのままにしてあります。その辺をいじるとSFは沼にはまるのです。
 文芸同人界隈では、いわゆるジャンルを定めずにずあれこれ書いていますが、これが本性です。

 2013年10月作。原題『帰環』。



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